"読む落語"の面白さに気づく
落語本は面白い~電車の中では注意~
40代後半からときどき落語を聞くようになった。
実家の父がラジオで落語を聴いていたのは知っていた。でも、落語の話などしたこともない。
遺品整理で志ん朝や圓生などのCDが沢山出てきたときは、そんなに好きだったのかと意外だった。
私は、それらの古典をCDでひと通り聴いたあと、ブームに乗って志の輔や喬太郎の創作落語にはまったが(パルコにもよく通った)、ふたたび古典に戻ってきた。
古典も創作もどちらも面白く、その時の心持ちによって選べばいいと思う。
これまで落語は、"寄席で観るのが本寸法だろ"という素人の思い込みがあった。でも、なかなか都合よくチケットが取れない(ましてや今はコロナだ)。ラジオやCDは、噺家の表情やしぐさ、客席の空気が分からない。テレビやDVD、ユーチューブはどうも感じが出ない、ともどかしさがある。
なかんずく落語を文字で読むとはいかがなものか、と。
今では、これまで食わず嫌いで悪かった、と反省している。本も面白いのだ。
最近は、通勤の電車でだいたい落語本を読んでいる。突然ニヤニヤしたり、笑いをこらえたりして、周囲から不審な目で見られるのは覚悟のうえ。そして、こうした視線は、飛行機の中で落語を聴くときよりはるかに厳しいことを知っておく必要がある。
落語を文字で読む面白さは、情景を自由に思い浮かべて広がりを感じられることと、色々な噺家のしゃべり口調で頭に入れると違った味わいになることではないか(知ったふうなことを言えば)。
話は逸れるが、柳家花緑の著書にあったシンクロニシティの話が面白かった(柳家花緑 特選まくら集 「竹書房文庫」)。ひと言で言うと、意味のある偶然という話で、自分がワクワクしていれば、ワクワクすることが起きる(気づく)というもの。
この話を読んで、日常の観察眼がちょっと向上したように思う。
これについては、改めて。